意外と知らない花火大会の歴史!日本の夏の風物詩はどのようにして生まれた?
夏の夜空を彩る花火大会。大勢の人が集まり、夜空に咲く大輪の花を見上げる時間は、私たちにとって特別な夏の思い出ですよね。でも、この美しい日本の花火が、どのようにして夏の風物詩となったのか、その歴史をご存知ですか?
実は、花火の起源には、意外な物語が隠されています。この記事では、花火が日本に伝わってから、現代の花火大会へと続く壮大な歴史を紐解いていきます。
日本の花火、その始まりは「戦」だった?
日本に花火が伝わったのは、戦国時代のこと。鉄砲伝来と同じく、ポルトガル人によって火薬と一緒に持ち込まれました。この頃の花火は、観賞用ではなく、もっぱら戦の合図や武器として使われていました。
平和な時代が訪れた江戸時代に入ると、花火は少しずつ観賞用へと姿を変えていきます。徳川家康も花火を愛でたと言われ、火薬の扱いに長けた花火師を重用したことが、花火文化の発展を後押ししました。
江戸時代が「花火大会」の原点
花火が庶民にとって身近な存在になったのは、江戸時代中期のことです。特に大きな転換点となったのが、現在の隅田川花火大会の歴史的起源と言われる出来事です。
享保の大飢饉と両国川開き
享保17年(1732年)、西日本を中心に享保の大飢饉が起こり、江戸でも疫病が流行しました。八代将軍・徳川吉宗は、犠牲となった人々の慰霊と悪疫退散を願って、隅田川で花火を打ち上げました。これが、花火大会の始まりとされています。
この花火は、両国川開きというイベントの一環として開催され、川岸の屋台や涼み船と共に、江戸の町人たちにとっての大きな娯楽となりました。
鍵屋と玉屋の登場
江戸時代の花火人気を二分したのが、鍵屋と玉屋という二大花火師です。彼らは、それぞれ「たまやー」「かぎやー」と声をかけられるほど、町人たちの間で大人気でした。
両国橋を挟んで互いの技術を競い合った彼らの花火は、江戸の夏の夜を華やかに彩りました。観客が思い思いに好きな花火師に声援を送る光景は、現代の花火大会の応援風景にも通じるものがありますね。
明治以降の近代花火:「和火」から「洋火」へ
江戸時代までの花火は、炭や硫黄を主成分とした素朴な色合いの「和火(わび)」が中心でした。しかし、明治時代になると、西洋から化学薬品や技術が伝わり、現代のような赤、青、緑といったカラフルな花火が作られるようになりました。
和火が持つ、独特の渋い光や燃え盛る火花に対し、**洋火(ようび)**は鮮やかで多様な色合いを生み出せるようになりました。
この技術革新は、日本の花火師たちに新たな創作意欲をもたらし、次々と新しい種類の花火が誕生しました。長岡花火や大曲の花火といった、全国各地で独自の進化を遂げた花火大会は、そうした花火師たちの技術競争の賜物と言えるでしょう。
まとめ:花火に込められた先人たちの想い
花火は、単なる夏の娯楽ではありません。犠牲となった人々の慰霊から始まり、町人文化の中で独自の発展を遂げ、明治以降は技術革新によって世界に誇る日本の文化へと成長しました。
夜空に咲く一瞬のきらめきには、平和への祈りや、人々の心を明るくしたいという先人たちの強い想いが込められているのです。次に花火大会に行くときは、ぜひその壮大な歴史に思いを馳せてみてください。